今川義元の生涯
「海道一の弓取り」と称された駿河・遠江・三河の太守。優れた政治手腕で今川家の最盛期を築くが、尾張侵攻のため進軍中に桶狭間の戦いで織田信長に討たれた(従来は上洛が目的とされてきたが、近年は尾張侵攻説が有力)。
— 海道一の弓取り —
| 名前 | 今川義元 |
|---|---|
| 本名・幼名 | 芳菊丸 |
| 異名 | 海道一の弓取り |
| 生年 | 1519年 |
| 没年 | 1560年 |
| 出身 | 駿河(静岡県) |
| 勢力 | 今川 |
| 役職 | 大名 |
「海道一の弓取り」と称された駿河・遠江・三河の太守。優れた政治手腕で今川家の最盛期を築くが、尾張侵攻のため進軍中に桶狭間の戦いで織田信長に討たれた(従来は上洛が目的とされてきたが、近年は尾張侵攻説が有力)。
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戦国図鑑アプリを見る駿河・遠江の守護大名・今川氏親の五男。本来は出家して僧侶となるはずだったが、兄たちの相次ぐ死により還俗し、花倉の乱を経て1536年に家督を継ぐ。
軍師・太原雪斎の補佐を受けて駿河・遠江・三河の三カ国を支配し、「海道一の弓取り」と称された。甲相駿三国同盟を成立させ、武田・北条との安全を確保した上で西方への勢力拡大を図った。
1560年、2万5千(諸説あり)の大軍を率いて尾張に侵攻するが、桶狭間にて織田信長の急襲を受けて戦死。従来は上洛が目的とされてきたが、近年は尾張侵攻説が有力。東海の雄として隆盛を誇った今川家の没落の始まりとなった。
公家文化を愛し、駿府を「東国の京都」とも称される文化都市に育てた。今川仮名目録を補完し、法治主義的な領国経営を行った名君。「お歯黒・公家装束」のイメージから軟弱に描かれがちだが、実際は合戦の指揮も執る実践的な大名であった。
桶狭間の戦いについて、従来の「迂回奇襲説」は否定され、近年は正面攻撃説が有力。また、上洛目的説も疑問視されている。義元は「暗愚な大名」ではなく「優秀な大名が運悪く討たれた」との再評価が進んでいる。
今川館(駿府)、鳴海城、大高城
1560年5月19日、尾張国桶狭間にて戦死。享年42。織田信長の奇襲(正面突撃説もあり)により、乱戦の中で討ち取られた。服部一忠が一番槍、毛利良勝が首級を挙げたとされる。
今川義元は駿河(現在の静岡県)の出身です。
今川義元は桶狭間の戦いに参戦しています。
今川義元は「海道一の弓取り」と呼ばれています。
1560年5月19日、尾張国桶狭間にて戦死。享年42。織田信長の奇襲(正面突撃説もあり)により、乱戦の中で討ち取られた。服部一忠が一番槍、毛利良勝が首級を挙げたとされる。
「海道一の弓取り」(周囲からの評価・当時の東海道最強の武将の意)