長宗我部元親の生涯
土佐国の戦国大名。一領具足の兵制で四国統一を達成するも、豊臣秀吉の四国征伐で土佐一国に減封。長浜の戦いでの初陣から「姫若子」が「鬼若子」へ変貌した逸話で知られる。
— 土佐の出来人 —
| 名前 | 長宗我部元親 |
|---|---|
| 本名・幼名 | 弥三郎 |
| 異名 | 土佐の出来人 |
| 生年 | 1539年 |
| 没年 | 1599年 |
| 出身 | 土佐(高知県) |
| 勢力 | 長宗我部 |
| 役職 | 大名 |
土佐国の戦国大名。一領具足の兵制で四国統一を達成するも、豊臣秀吉の四国征伐で土佐一国に減封。長浜の戦いでの初陣から「姫若子」が「鬼若子」へ変貌した逸話で知られる。
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戦国図鑑アプリを見る土佐国岡豊城主・長宗我部国親の嫡男。幼少期は色白で大人しく、「姫若子」と呼ばれた。しかし初陣での活躍で周囲の評価を覆し、父の死後に家督を継いで土佐統一に乗り出す。
一領具足(半農半兵の制度)を巧みに活用し、精強な軍団を編成。1575年頃に土佐を統一し、その後阿波・讃岐・伊予に進出。1585年には四国統一を果たした。
しかし同年、秀吉の四国征伐を受けて降伏。土佐一国に減封される。秀吉の九州征伐に従軍した際、嫡男・信親を戸次川の戦い(1586年)で失い、以後は覇気を失った。晩年は後継者問題で家中が揺れ、1599年に伏見で病没。享年61。
「姫若子」から「土佐の出来人」へと変貌した成長型の武将。一領具足制度に象徴される、土着の民との一体感を重視した統治を行った。嫡男・信親を失って以降は人が変わったように暗くなり、後継者として盛親を指名したが、家中の反対を押し切った強引さが長宗我部家衰退の一因に。
四国統一の過程で、本能寺の変と信長の四国攻め中止が果たした役割は大きい。光秀との連携説(四国政策説)は本能寺の変の一因として議論されている。後継者に盛親を指名した判断は、長宗我部家滅亡の遠因とされる。
岡豊城、大高坂山城(高知城の前身)、浦戸城
1599年5月19日、伏見の長宗我部屋敷にて病没。享年61。嫡男・信親の戦死後、晩年は酒に溺れたとも伝わる。
長宗我部元親は土佐(現在の高知県)の出身です。
長宗我部元親は四国平定、戸次川の戦いに参戦しています。
長宗我部元親は「土佐の出来人」と呼ばれています。
1599年5月19日、伏見の長宗我部屋敷にて病没。享年61。嫡男・信親の戦死後、晩年は酒に溺れたとも伝わる。
「一芸に秀でた者を、それのみにて使うは愚なり」